できる人が評価され、より多くの報酬を得る——。現代社会では「能力主義」が当たり前の仕組みとして受け入れられていますが、果たしてそれは正しいのでしょうか?
勅使川原真衣氏の著書『働くということ 「能力主義」を超えて』では、この問いに真正面から向き合います。
本書では、「能力」という基準で人を「選別」することに疑問を投げかけ、「能力主義」の問題点を鋭く指摘しています。そして、その問題を解決するための新しい働き方を、組織論的な視点から提案しています。
これまでの自分と組織の関係を振り返り、改めて「働くということ」を考えるヒントが本書に詰まっています。
『働くということ 「能力主義」を超えて』の情報
- 著者:勅使川原真衣
- 出版社:集英社
- 発行日:2024年6月17日
- 単行本:264ページ
Source:集英社新書

勅使川原真衣氏は組織開発の専門家です。教育社会学と組織開発の視点から「能力主義」や「自己責任論」の限界を問い直します。
「能力主義」が生まれた背景
本書の副題にある「能力主義」とは、「能力」の違いによって、資源のもらい(受け取る量)が決定されるという考え方です。
この「能力主義」はどのようにして生まれ、現在の社会に定着したのでしょうか?
社会に存在する資源(食料、土地、お金など)には限りがあり、それらを完璧に配分することは困難です。そのため、個人によって「もらいの多寡」が生じてしまいます。しかし、もらいが少ない側からは不満の声が出てきます。
そこで、体制側は「能力」という概念を利用することで、人々を「分ける(分類する)」方法を考えました。つまり、「その人は何ができる人なのか?」という個人の「能力」を見るという”設定”によって、人々を「分かった(把握した)」ことにしたのです。
そして、「能力」という基準によって資源を「分け合う」ことが、正当な民主制だとみなされるようになりました。
結果として、「能力が高い人」はより多くの資源を受け取り、「能力が低い人」は少なくても仕方がないという考え方が、多くの一般市民にも受け入れられるようになったのです。
「能力」の違いによって、人々を「分け」、その差を基準にして、限りある資源を「分け合う」という原則。「能力主義」という配分原理、と言ってもよいでしょう。できる人はもらいが多く、できの悪い人はもらいが少なくても仕方がない——この考えは、社会の普遍的な掟のごとく、すっかり定着しました。
勅使川原真衣『働くということ 「能力主義」を超えて』P.33
以上が、現代では当たり前に受け入れられている「能力主義」という考え方の成り立ちです。
「能力主義」の問題点
しかし、この「能力主義」は完璧な仕組みといえるのでしょうか? 著者は、以下の3つの視点から疑問を投げかけます。
- 人間同士が「選び・選ばれる」状況が成り立つのは、非常に限定的なのでないか?
- 何を見て、個人の「能力」を測るのか?
- そもそも「できがよく、多くもらえたほうがいい」という前提は正しいのか?
以上の3つは、どれも本質を突く問いかけです。たとえば、ビジネスの現場での例を考えてみると、次のようになります。
- 優秀な新人を採用したが、1年で退職してしまった(「選抜」が上手く機能していないため)
- 仕事の「成果」が曖昧で、個人の「能力」を測れない(仕事は他者と協働して遂行されるため)
- 高い給料をもらっているが、激務で体調を崩してしまった(必ずしも多ければいいわけではない)
以上の3つの疑問によって、著者は「能力主義」の正当性を問い直し、その急所を次のように指摘します。
——そもそもの問題は、個人が社会に一人きりで真空パックされたかのような「人間観」「仕事の成果観」に端を発するのではないか? (本書P.87)
つまり、能力主義は、個人が社会から切り離された、独立した存在であるかのように捉え、その能力だけで評価しようとするという考え方です。
しかし、実際には、私たちは社会の中で様々な人と関わり合い、協力し合いながら生きています。仕事においても一人で完結できるものは少なく、チームや組織の中で、他者との協力によって成果を生み出しています。
経営学者・宇田川元一氏の著書『他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論』では、「個人とは『個人と個人の環境』によって作られている」という考え方が示されています。つまり、自分の能力だけでなく、置かれた環境や人間関係も含めて、その人のあり方が決まるということです。
能力主義は、このような社会的なつながりや協力の重要性を軽視し、個人の能力のみを重視することで、本来あるべき仕事の成果や人間の価値観を見誤っていると言えます。


組織論的脱・「能力主義」とは
では、「能力主義」にも問題があることがわかったところで、これからはどのようにして個人や組織として働いていけばよいのでしょうか? 著者は「組織」を「走る車」に喩えて、次のように説明します。
「個人」の良し悪し・能力の高低に拘泥せず、チームとして互いが発揮しやすい「機能」を持ち寄ることで、車で言えば、総じて安全に走行することこそが、組織の「達成」「成果」だよね、とする考え方です。「あの『エンジン』ってすごいよねぇ! やっぱりあのくらいの『エンジン』でなきゃダメだよね!」じゃなくて、今、すでに「エンジン」があるのなら、そこを補うべき点は何か? それを周囲が認識したうえで、周りの「機能」でカバーし合って、全体としてうまくことを運ばせる方法を検討・調整し続けるという話なのです。
勅使川原真衣『働くということ 「能力主義」を超えて』P.105-106
「エンジンが優秀だから成功する」と考えるのではなく、すでにある「エンジン」を活かし、他の部分がどう補い合えるかを考えることが重要です。
つまり、一部の個人だけが高い能力を持つ「部分最適」ではなく、組織全体で高いパフォーマンスを発揮できるように「全体最適」を目指そう、という考え方です。
本書では、この「走る車」としての組織論を「レゴブロック」を例に説明されています。このたとえ話が、個人的にとても納得できる内容だと感じました。


レゴブロックは、色・大きさ・形が異なるパーツを組み合わせることで、家や車、巨大海賊船など、いろんなものを作ることができます。
このレゴブロック1つを「個人」とすると、「優秀な人」とはどのような状態を指すのでしょうか? たとえば、1人で何でもできる人を「優秀」とするなら、その人は「小舟」の形をしたブロックと言えるでしょう(もちろん、小屋やミニカーでも構いません)。
つまり、その人がいくら優秀でも、個人の力だけで達成できることには限界があります。だからこそ、人々は組織を作り、より大きな目標を達成しようとします。ただし、組織が全体最適された成果を出すには、個々のブロックの「能力」ではなく、それぞれが持つ「機能」の組み合わせを考える必要があるのです。
このような「能力主義」に代わる新しい組織論的な考え方を、著者は「組織論的・脱『能力主義』」と呼んでいます。
自分を自分として生きる人それぞれを「いいね」と組織が受け入れ、組み合わせの妙によってどうにかこうにか「活躍」してもらう——これが組織論的脱・「能力主義」の土台です。
勅使川原真衣『働くということ 「能力主義」を超えて』P.115
私の「働くということ」
本書では、当たり前に受け入れられている「能力主義」に疑問を呈し、改めて「働くとは何か?」を読者に問いかけています。
その中で、私が特に印象に残ったのが以下の部分です。
(前略)現実の職場の多くは、不完全な仕組みながらも、なんとか回っている。そんな状況との対比が浮かぶからです。時に誤りもあるだろうけれども、そのときどきで揺らぎながら、事を進めている現場の人々。それを思うと、組織の安寧は案外、揺らぎの中にあるのではないか——そんなことを思うわけです。
勅使川原真衣『働くということ 「能力主義」を超えて』P.75
この文章の「不完全な仕組みながらも、なんとか回っている」というのは、どの組織にも当てはまるのではないでしょうか。これは「完璧な組織は存在しない」とも言えると思います。
世界経済という大きな流れから、個々の人間関係という小さな環境において、常に変化し続ける中でなんとかバランスを取りながら「組織」として機能している。
その「揺らぎ」の中で、自分がどのように「自分らしさ」を発揮しながら生きていくかを考えることが、「働くということ」なのかなと感じました。
『働くということ 「能力主義」を超えて』の次に読みたい本
『働くということ 「能力主義」を超えて』では、当たり前のものとして受け入れられている「能力主義」という考え方を解きほぐし、その問題点と代替策について考えています。
そこからさらに、「能力主義」の限界と「組織開発」の将来について深く掘り下げているのが、勅使川原真衣氏の著書『職場で傷つく~リーダーのための「傷つき」から始める組織開発』です。
このタイトルにピンと来た方は、ぜひ手に取って読んでみてください。