「雨ってなんで降るんだろう?」
高校生のとき、雨が降るなか学校から歩いて帰っていた私は、そんなことを考えていました。
傘を持っていない方の肩と腕は濡れて冷たくなっており、靴下は脱いで一度絞りたいくらいです。背負っているカバンのことはもう考えないことにしました。
「雨なんて降らなければいいのに」
農業をやっている方には怒られるかもしれませんが、当時はそんな風に思っていたこともありました。雨の日というだけで、いつもより気分がどんよりするのです。
どうして雨は降るのか
どうして雨は降るのだろう? この疑問に対して、科学的な答えは次のようになります。
- 太陽が湿った空気を温める
- 湿った空気が上昇して、冷やされて雲になる
- 雲が成長する
- 重くなった雲の粒が、雨として降ってくる
- 降った雨は、川や海に戻る
- 1~5の繰り返し
「雨」とは、結局のところ、地球上で水が循環する過程の一部にすぎません。地球上の水が、水蒸気や水滴に姿を変えて、地上と空を移動する。その過程の一部を私たちは「雨」と呼んでいるのです。

これらの現象はすべて科学の法則に従って発生しています。そのため、上記のように科学的に説明することができます。
そんなふうに考えてみると、「雨を止めるために、自分にできることは何もないな」と思いました。
服も靴もびしょ濡れで、おまけにメガネも曇ってきて前が見えない状態。一刻も早く雨が止んでほしいと思っていました。
しかし、人間を困らせようと思って、神様が雨を降らせているわけではありません。ただの自然現象の結果として「雨が降っている」だけなのです。
なので、雨が降っていることに腹を立てたところで、それは誰のせいでもないのです。雨が降る条件がそろったから、雨が降った。とてもシンプルな構造です。
ここまで考えて、私は思いました。
「雨って、何も悪くないじゃん」
「雨が嫌だ」と感じる原因は、「雨」という現象そのものではなく、雨に濡れたことに不快感を感じる「自分」にあるのだと気づいたのです。
二ーバーの祈り
ところで、「二ーバーの祈り」という言葉をご存じでしょうか?
これは、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)の言葉です。
二ーバーの祈り
神よ、
The Serenity Prayer(ニーバーの祈り)
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
世界には、自分で変えられるものと、自分では変えられないものが存在します。
人は成長していくなかで、誰から教わるわけでもなく、そのことに気付いていきます。
そして、その事実を受け入れるために必要な力を、神に「与えたまえ」と祈るのです。
- 変えられないものを受け入れる「冷静さ」
- 変えられるものを変える「勇気」
- 変えられるものと変えられないものを見分ける「賢さ」
これらは、人として強く生きるために必要な力です。
哲学者のショーペンハウアーは著書『幸福について』の中で、次のような言葉を残しています。
賢さの次には勇気が私たちにとっての甚だ大切な特質である。
私は、この「賢さ」と「勇気」の次に大切なのが、変えられないものを受け入れるための「冷静さ」だと感じています。
雨はただ降っているだけ
雨を止めることはできない。ただ降っているだけ。
そう思うようになって以来、私は雨を何とも思わなくなりました。
もちろん靴が濡れるのは嫌ですが、それも仕方ないことだと受け入れるようになりました。これは「諦め」ではなく、自分で「納得」して受け入れているのです。
雨は私の靴を濡らそうとしているわけではありません。ただそこに降っているだけです。だから、雨に腹を立てても何も変わりません。
結局のところ、嫌なことに対してどう思うかは自分の考え方しだい、ということです。
時間はかかりますが、自分の考え方というものは、意外と変えることができるものです。